大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和48年(オ)1169号 判決

上告人(被告)

四国フエリー株式会社

被上告人(原告)

塩田和子

ほか二名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人大西美中、同大西昭一郎の上告理由について。

原審が適法に確定した事実関係からみると、客観的には、本件事故当時において、上告人は、訴外藤原正晴の運転する本件自動車の運行につき運行支配及び運行利益を有していたものと認められないわけではない。原判決は上告人の運行利益の点につき明示するところがないが、その判示は、これを肯定しているものと解することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 坂本吉勝 関根小郷 天野武一 江里口清雄 高辻正己)

上告理由

上告代理人大西美中、同大西昭一郎の上告理由

原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の違背がある。

一 (一) すなわち、本件は、昭和四四年四月二六日をもつて上告人会社を退社した訴外藤原正晴(以下藤原という)が、翌二七日午前一時三〇分頃、上告人会社高松営業所長堀川浩洋が同営業所専用駐車場に駐車していた上告人会社所有の自動車(以下本件自動車という)を、上告人会社従業員の拒絶にもかかわらず、ひそかに乗り出し運転中に惹起した事故にかかわるものであつて、上告人会社とは雇傭関係等の身分的関係が全くない第三者の無断運転によるものであることの明らかな事例である。原判決も右訴外藤原が上告人会社を既に退職したものであり、上告人会社とは身分関係等のない、いわゆる非従業の無断運転であることを確定しているのである(原判決書五丁表四ないし五行目において引用する第一審判決書一三丁裏記載の説示参照)。このような場合においては、事故当時において上告人会社に本件自動車に対する運行支配も運行利益も帰属しておらず、上告人会社が自動車損害賠償保障法(以下自賠法という)第三条の「自己のために自動車を運行の用に供する者」(運行供用者)に該当しないことは明らかといわなければならない。

しかるに、原判決は、一方において運行支配性の存否の判断にかんし自動車保有者と運転者たる第三者との身分関係等の存否が重要な要素となることを説示していながら、本件にかんし、本件自動車がエンジンキーを点火装置に差し込んだままドアの施錠をしないで駐車されており、前記上告人会社の専用駐車場附近では人の往来が予想され、また藤原は短時間内に返還する予定で運転を始めたものであつて、本件事故は右運転開始の一〇分ないし二〇分後に上告人会社の前記営業所からさして遠くない場所で発生したものであるとし、これだけの事実から上告人会社につき本件自動車に対する運行支配が継続しているとして自賠法三条の運行供用者責任を認めたのである。

しかし、かかる原判決の判断は、一方において保有者と運転者間の身分関係等の存否を運行支配性の判断の重要な要素とし、かつ本件においてはかかる関係のないことを認定判断しつつ上告人会社について運行供用者責任を肯定した点において論理の矛盾もしくは飛躍があるのみならず、自賠法三条の解釈適用を誤つた違法のものであるといわなければならない。

(二) すなわち、前述のとおり訴外藤原の本件自動車の運行が非従業の無断運転であり、藤原の運転にいたるいきさつ、動機、心情はともかく、同人が本件自動車を盗取して運行に及んだことは確定した事実である。この意味において、本件は正に泥棒運転の場合にほかならず、かかる泥棒運転の場合には、運転者自身が運行供用者責任を負うことはともかく、保有者に運行供用者責任を問うことはできないとするのが今日我国の通説であり判例であるといわなければならない。(木宮高彦・註釈自動車損害賠償保償法三七頁以下、注釈民法一九巻一〇一頁、赤鹿勇・交通事故の処理と対策一〇七頁、東京地裁昭和四一年一二月一五日判決〔判例時報四六七号二一頁〕、大阪高裁昭和四六年一一月一八日判決〔判例タイムズ二七六号一七六頁〕、等)。近時自動車事故の多発性に鑑み、判例、学説が自賠法三条の運行供用者責任の成立を広く認める傾向にあることは周知のとおりである。しかし同時に、右責任の成立範囲の限界もまた次第に明らかにされており、例えば、宮崎富哉氏・交通事故における使用者責任と運行供用者責任との関係〔判例タイムズ二一一号一二八頁〕は、雇傭、友人関係等法律上または事実上の関係(同氏の所謂基本的関連関係)を欠く場合、運行が運行供用者の運行支配に服する者の意思にもとづくときであつても運行供用者に何らの利益をもたらさない場合等には、それまでの運行供用者の運行支配は失われるとされるのである。そして、最高裁判所においていわゆる第三者の無断運転中の事故にかんし保有者の運行者運用責任が肯定された事例はすべて保有者と雇傭関係、姻戚関係等密接な関係にある者が運転していた場合にかんするものであり、本件のごとく保有者と全く人的関係のない場合にまでこれを肯定したものはないことに注意すべきである(最判昭和三九年二月四日〔民集一八巻二号二五二頁〕、同昭和三九年二月一一日〔民集一八巻二号三一五頁〕、同昭和四〇年九月七日〔裁判集八〇巻一四一頁〕、同昭和四二年一一月三〇日〔判例時報五〇四号六四頁〕、同昭和四四年九月一二日〔民集二三巻九号一六五四頁〕、同昭和四六年一月二六日〔判例時報六二一号三五頁〕、同昭和四六年七月一日〔民集二五巻五号七二七頁〕等)。

而して、とくに最高裁判所昭和三九年二月一一日判決〔民集一八巻二号三一五頁以下〕および同昭和四〇年九月七日判決〔裁判集八〇巻一四六頁以下〕は、いわゆる第三者の私用のための無断運転中の事故につき「自動車の所有者と第三者との間に雇傭関係等密接な関係が存し、かつ日常の自動車の運転及び管理状況等からして客観的外形的には自動車所有者のためにする運行と認められるとき」に保有者の運行供用者責任を問うことができるとしているのであり、わが最高裁判所が、保有者と第三者との間の雇傭関係等の存在と日常の自動車の管理上のミス等の両者を要求していることは明らかである。

思うに、所有者の自動車に対する支配は自ら直接支配する場合にかぎらず、他人を介して間接に支配する場合があることはつとに論者の指摘するとおりであるが、これは保有者と第三者との間に雇傭、親族関係、友人関係あるいは使用許諾等法律上または事実上の基礎的な人的関係の存在することを前提とするものである。しかし、泥棒運転のごとく自動車が保有者(またはその従業員)の意に反し、右のごとき関係のない者によつて盗取され乗り去られた場合には、保有者と運転者との間において、保有者の自動車に対する支配の継続性を基礎づける人的関係それ自体が何ら存しないばかりでなく、保有者の当該自動車に対する支配性そのものが侵奪された場合にほかならない。かかる場合において保有者の運行支配の継続性を認めることができないのは全く明らかというべきである。

(三) なお、多くの学説、判例は右のような保有者と運転者間の人的な関係のほかに、日常の自動車の運転状況や管理状況、当該運行に対する指示制御の可能性、運行予定時間、距離、返還予定の有無等を保有者の運行支配性の存否(あるいは継続性の有無)の判断要素として挙げ、本件原判決も自動車の管理状況、無断運転の時間的・場所的関係あるいは車両の返還予定を考慮すべき要素として挙示している。しかし、多数の学説判例が「日常の運転状況、管理状況」という場合のそれは、従業員、親族、友人等保有者と一定の関係ある者との関係において、保有者が日常いかなる管理をしていたかどうか、またそれらの者に従来数回あるいは多数回保有者所有の自動車を使用させていた関係の存在等、一定の基礎的関係の存在を通じて抽象的に認められる保有者の運行支配性を具体的に明らかにする事実関係であり、本件原判決のごとく保有者と運転者の人的関係をはなれて、しかも、日常性とは全く関係ない盗取時の駐車状況だけから自動車の管理状況を論ずるものでは決してない。因みに、ドイツと異り、「他人による自動車の利用が保有者の故意または過失によつて可能となつた場合には、保有者もまた賠償義務を負う」旨の規定(西ドイツ道路交通法七条三項第一文後段参照)を欠くわが国においては、仮え駐車上における過失がありこれが第三者の無断運転の基因となつたとしても、そのことから直ちに保有者に責任を問うことはできず、民法七〇九条のスクリーンを通過しなければならないが、適法に自己の専用駐車場に駐車していた本件については、原判決説示の事実をもつてはこの責任を論ずることもできない。

さらに、第三者の運行予定時間、距離、返還予定の有無等の要素は、保有者と運転者との間に一定の関係があることにより、客観的外形的に認められる保有者の運行支配性の阻却原因としての意味を有するものであつて、保有者と運転者間の前記のごとき基礎的関係をぬきにして意味をもつ基準ではないことに注意すべきである。けだし、今日の判例理論は、前掲最高裁判所判決に示されるごとく、自動車の所有者と第三者の間に雇傭関係等の密接な関係が存しかつ日常の運転管理状況等から客観的外形的に保有者の運行支配性の存否を判断することとしているのであつてこの判例理論に従うときは、運行予定時間、距離や返還予定の有無などは積極的要素としては不要であるのみならず、そもそもこれを外形的に判断することは不可能なことである。しかし反面、いかに雇傭関係等の存在から一般的抽象的には保有者の支配範囲にあるとされる場合であつても、第三者の運行が余りに長期、長距離にわたる場合あるいは返還予定がないときなどの場合には、右支配範囲を離脱したものとしなければ公平に反するといわなければならない。このように、運行時間、距離や返還予定の有無等は、雇傭関係の存在等から客観的外形的に判断される保有者の運行支配性のいわば阻却事由としての意味をもつものにほかならず、これをはなれて、独自の判断要素となるものではないことは明らかといわなければならない。(最判昭和四四年九月一二日〔民集二三巻九号一六五四頁〕参照)。原判決は、「所有者と運転者との身分関係、自動車の管理状況、無断運転の時間的・距離的関係あるいは運転者による車両の返還予定の有無などの諸般の事情を総合して客観的外形的に判断」するなどと説示しているのであるが、運転者の内心の意思にかかわる運転時間や返還予定の有無等をいかにして外形的に判断できるというのであろうか。かかる説示自体、前記のごとき判例理論に示される要件の理論的関係に対する無理解を示すもの以外の何ものでもないというべきである。

(四) 以上明らかにしたように、第三者の無断運転の場合においては、当該第三者と保有者との間に雇傭関係等の密接な人的関係が存する場合にはじめて、保有者の運行支配性の継続を認めることができるのであり、その余の要素、例えば第三者の運行予定時間、返還予定の有無、車両保管状況等などは、右のような基礎的関係をはなれては意味をもたないものである。本件は、冒頭において述べたとおり、雇傭関係の消滅した第三者の無断運転にかかるものであり、しかも保有者たる上告人会社従業員の拒絶にもかかわらず敢えて乗り去られたケースにかんするものであつて、保有者の運行支配の継続性判断の前提そのものを欠くことは全く明瞭である。原判決は上告人会社と前記訴外藤原との間には雇傭関係は消滅し前述した基礎的な人的関係それ自体が消滅していることを認定説示していながら、上告人会社に運行支配の存続を認め、運行供用者責任を肯定したのであるが、これは、前記のとおり現在の通説的見解に反するばかりでなく、最高裁判所昭和三九年二月一一日判決、同昭和四〇年九月七日判決に反するものであつて、自賠法三条の解釈適用を誤つたものであることは明らかといわなければならない。

なお、原判決は、訴外藤原が運行日の前日まで上告人会社と雇傭関係があり、これが本件自動車を運行せしめる機縁となつたなどとしているのであるが、右藤原は本件自動車の所属する上告人会社高松営業所とは海をへだてた岡山県玉野市に居住する者であり、かつ勤務も宇野営業所において切符切りの仕事に従事していたものであることは当事者間に争いがなく、さらに同人の上告人会社の在籍期間は昭和四四年一月九日からわずか三ケ月余にすぎないことは原判決の引用する第一審判決から明らかな事実である。このように勤務場所は本件自動車の保管場所と全く異り、しかも職種も自動車運転とはおよそ関係のない仕事に短期間従事していたにすぎない訴外藤原について、上告人会社が従前同人に本件自動車を自由に使用させていたとかの特段の事情のみとめられない本件においては、同人が本件運行日の前日まで上告人会社の従業員であつたことや、藤原が抱いていた心安さなど同人の勝手な心情などは、上告人会社の本件自動車に対する運行支配の判断に何の関係もないことである。のみならず、藤原は、前記のとおり上告人会社従業員の拒絶にもかかわらず、ひそかに本件自動車を乗り出したのであつて(原判決の引用する第一審判決一三丁表参照)、かかる場合にあつては、従前の雇傭関係が考慮される余地など最早全く存しないことは明白であるといわねばならない。

二 (一) さらに原判決は、上告人会社の運行利益の有無について何ら審及判断することなく、上告人会社に運行供用者責任を認めているのであるが、運行供用者とは、当該自動車に対する支配と当該自動車の運行による利益即ち運行利益とが自己に帰属する者をいうとするのが我国の通説であり、最高裁判所の判例もまた、先に述べた客観的外形的な運行支配の存在のほかに、運行利益の帰属を要件としていることは疑いないところである(最判(二小)昭和四四年一月三〇日〔判例時報五五三号四五頁〕、同(一小)昭和四五年七月一六日〔判例時報六〇〇号八八頁〕、同(三小)昭和四六年一月二六日〔民集二五巻一号一〇二頁〕等)。

しかるに、原判決は、運行支配の存否について前記のごとき誤つた判断をしたのみならず、右運行利益の帰属の有無について何らの判断を示しておらず、この点においても自賠法三条の解釈を誤つたものといわなければならない。

成程、近時の学説中には、運行供用者の中心概念は運行支配の有無であり、運行利益の帰属の有無は、この運行支配の存否判断の一つの徴憑であると解する説もある。しかし、仮りに、この説に依るとしても、運行利益の不在は運行支配の稀薄性を意味するわけであり、いずれにしても、運行利益について何ら判断を必要としないわけではない。

而して、本件の如く、保有者と無関係の第三者による無断運転の場合には、その運行による利益が保有者に帰属しないことは夙に指摘されているところであり、かかる場合に保有者を運行供用者とすることができないことは明らかである。

尤も、最高裁判所昭和四六年七月一日(民集二五巻五号七二七頁)は原判決が運行利益の帰属についての判断を遺漏していることを指摘した上告論旨に応えて、原判決の確定事実によれば保有者に運行利益の帰属がみとめられるとして上告を棄却したのであるが、右事案は小数の組合員から成る組合の代表者個人の保有する車両について、日常右組合員らをして運転せしめていた場合において、右保有者が出張中に修理に出していた車両が修理完了し、保有者から委任をうけた者の指示をうけて受けとりにいつた組合員が、その帰途私用に運転したというものであり、本件のごとき泥棒運転の場合にはあてはまらないケースである。

以上述べたとおり、本件原判決は、自賠法三条の解釈を二点において誤り、その結果上告人会社に運行供用者責任を認めたのであつて、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。よつて原判決を破棄し被上告人らの請求を棄却するご判決を賜りたく本上告に及ぶものである。

以上

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